モノローグ

鎌倉殿も脳卒中を患った(2022.7.17)

 

 NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の本編後に放送されているミニ番組「大河紀行」の音楽においてテルミン演奏しました。2022年7月17日の回から放送されています。録音は2022年4月下旬にリモートで実施されました。

 

 作曲は本編の音楽も担当されているエバン・コール(Evan Call)さん。エバンさんはアメリカ人ですが、エバンさんの作曲やアレンジは日本人の私の心の琴線にも触れました。

 義経や御家人など、戦場でなく裏切りや謀略で命を落とした者たちの無念が音楽で描かれています。そこに聞こえるのは、死せる魂の声にならない声。それを表すのにテルミンを選んだ意図も分かります。平泉の地で芭蕉が詠んだ句に思いを馳せて奏でました。

 

 初めてデモ音源を聞いたとき、それまでのテルミンを用いた音楽というと話題性が独り歩きして音楽的内容に乏しく、お仕事として受けたものの、中には気乗りしないものもありましたが今回は違います。この曲は、無念の中で果てた者たちへのレクイエムなのだとの、録音に先立ち行われたzoomミーティングで受けた説明が腑に落ちました。アレンジも秀逸で、途中で聞こえる地響きのような太鼓の音は、義経の死地から聞こえてきた怨霊の音。荒ぶる義経の魂を鎮めるためお釈迦さまが憑依したといわれたお猿の舞を想像しました。 

 

 頼朝が亡くなったのは落馬が原因と云われていましたが、劇中では直接的原因として脳卒中を患ったことを描いていましたね。落馬の直前にろれつ障がいが認められ、右半身に麻痺の症状が現れるなどリアリティがあり、2016年の自分の姿を重ねて、見入ってしまいました。

 私自身もクリスマスコンサート出演中に脳出血を患い、後遺症で右半身に麻痺が残ることが分かった時には、テルミン奏者としての道も断たれたかと無念でした。右手と左手の役割を入れ替えた「左利き」演奏スタイルの可能性が残されていて、そのことに気付き、それに向けて舵を切るに至るには5年の月日を要しました。

 新演奏スタイルでは、それぞれの手に染みついた動作の記憶が邪魔をして、思うように手を動かせず、ノイローゼの一歩手前まで追い込まれましたが、「できる」に続く道筋が見えだしてからは、全く新しい世界が目の前に広がりました。こんな新鮮な期待と大きな歓びで心が満たされたのは、テルミン演奏に取り組みはじめた当時以来かもしれません。

 再びテルミン演奏で責任ある仕事を任せてもらえ、エバンさんやディレクターの方からOKをいただき、プレイバックを飽くことなく繰り返し聴く愉楽に再び浸れたのは、感慨深かったです。

 

 発病から時間が経っているのにリハビリの機会を与えてくださった主治医の浜松医大リハビリ科の山内克哉先生や、施術してくださった遠州病院の療法士の方々に心からお礼申し上げます。先生方のお話は示唆的で、リハビリには何が必要なのか、目からウロコが落ちるような新鮮な発見が何度もありました。お言葉は私の中の前進する勇気や意欲を灯してくださいました。先生はじめみなさんのご支援なくして、私のテルミン奏者としての再生はあり得ません。今生きているのは5年前に与えられた余命だと思い、限りある生きる時間を無駄にしないよう、精一杯やっていきます。

 


インタビュー

竹内正実さんに訊く。脳卒中を乗り越え目指す「復活」。(2018.1.3)

Mandarin Electron(以下”ME”):2016年12月25日、横浜でのコンサート中に脳出血を患われ、入院を経てリハビリに励んでおられます。1/21(日)にはコンサート出演(テルミン侍プロジェクト主催)も控えておられるマンダリンエレクトロン代表でテルミン奏者の竹内正実さんにインタビューします。あらためまして竹内さんがテルミンをはじめるきっかけやいきさつについてお聞かせください。

竹内:音楽というよりは音そのものに関心のある子供でした。録音機を肩にかけ、野山の音を収音する“生録(なまろく)”や、効果音などを用いながらラジオドラマの真似事のようなもの作るのに興じていました。音楽に興味を持ちだしたのは中三の夏、バンドに引きずり込まれてからです。楽器などなにもできない私がどうしてバンドのメンバーになったのかよく分かりませんが、兄の手ほどきにより、音楽はとてもシンプルで明解な仕組みで造られていることが分かってから、がぜん面白くなりました。

 学生時代(大阪芸術大学音楽学科音楽工学専攻)の前半は学業そっちのけでオートバイに熱中する悪い学生でした。後半は改心し、音響心理の研究や制作、音楽制作に明け暮れていました。

 学校を卒業した後も何をするでもなく一年ほどぶらぶらしていました。見かねた御師がご自身の研究室にそれまでなかった”研究員”のポストを私のために設けてくれたりもしました。御師の紹介で就いた、できたばかりの大阪の音楽ホールでの仕事は面白かったです。NHKテクニカルサービスという、技術現業部門(カメラや音声などの仕事)を担うNHKの関連会社に所属しましたが、件のホールに常駐していました。主に音響を担当した私にとって、夜な夜な繰り広げられる名演奏の録音は、生きた実験室でした。音楽家の人間性にも触れ、佳い演奏をする人ほど椅子運びなど雑務も進んでやることも知りました。

 当時、たまたまテルミンの名演奏家の録音を耳にし、電子楽器なのに演奏家のマインドや思索に触れられる点など電子楽器の負の側面を覆す部分もあり、テルミンに強く惹かれました。テルミン奏者は世界に数えるほどしかおらず、テルミン博士についても不明なことばかりで謎に包まれている点も、さらに私を魅了しました。会社を辞める決心をして、留学のために二年間準備に充てました。私の仕事はお昼過ぎから始まるので、午前中はロシア語の教室に通い、留学費用を稼ぐため専門学校での非常勤講師のアルバイトをするなどしていました。当時のボスは副業も認めてくれ、会社を去る準備をしている私を応援してくれました。懐の深い、心の大きな方でした。御師にもボスにもご厚意に報いることができず、今も心残りです。

 どうしてテルミンを始めたかは、今もって投げかけられる問いです。言うまでもなくテルミンは魅惑的だったのですが、自分にはどこか他に約束の地があるはずだと、その場から逃げだそうする負のモメントがあったことも白状しておきます。人が何かを始めるには相応のモチベーションがあるはずですが、その中には何かしらネガも含まれているのだと思います。

 

 

ME:ロシアに留学される経緯についてお聞かせください。

竹内:当時日本にテルミン演奏を教えられる人はおらず、モスクワかニューヨークだけが習える場でした。テルミン博士やその周辺についてのフィールドワークもしたかったので、モスクワに行くことに決めました。

 1993年の夏に私のロシア留学生活が始まりました。26歳でした。仕事も辞めてロシアにテルミンを習いに行く私の背中を押してくれる人はいませんでした。これがピアノや歌を習いに行くとなれば皆応援してくれたでしょう。やってみればよいと。しかし26歳の私がロシアに渡ってピアノや歌を習ったとて、たぶん芽は出なかったでしょう。テルミンは全員反対する。テルミンなんて弾けるようになったとて仕事にならないしどうするんだと。しかし私なりに勝算はあったのです。奏者がほとんどおらず、謂わばマーケットが未開拓なわけで、そのマーケットを掘り起こせばよい。そうしてみると成功の可能性としてはテルミンのほうが高いと考えていました。当時そんなことをほざいても誰にも取り合ってもらえませんでしたが。

 たぶん今でもテルミン演奏法を習うではロシアの入国ビザは発給してもらえないと思います。モスクワのロシア語学校に籍を置き、テルミン博士のいとこの孫にあたるリディア・カヴィナ先生にテルミン演奏法を師事しました。当時すでにソ連は終わり、ロシア連邦になっていましたが情勢不安定で、到着して早々に保守派のクーデターが起こり、戒厳令が布かれました。また、当時は生活のいたるところにソ連式の名残があり、買い物は非合理的で長い行列に並ばなければならず、半日潰れたりもしました。

 もし私がもう少し早くテルミンに興味を持ちソ連時代に留学をしたならば、かなり面倒なことに巻き込まれていたでしょう。ソ連時代、外国人は行動監視されていましたから、ロシア語の学習もほどほどに、いつもきまった家に通っているとなると入管法違反で罰せられたでしょう。かつてスターリンの粛清に遭い、秘密警察機関とも繋がりのあったテルミン博士に関する文書は今でも一部が機密扱いだそうですが、テルミン博士についてかぎまわっているとなるとスパイ罪で逮捕されていた可能性もありました。

 

ME:竹内さんが考えるテルミンの魅力とは?

竹内:楽器のインターフェース性と楽器をめぐる状況に、他にはない魅力を感じています。

 発音こそ電子発振ですが、制御はすべて人間に任されています。音律も音階も定めるものがなく、自らのセンスと動作でそれらを創りださねばなりません。1mm動いたなら1mm分だけ音の高さが変わる敏感さを備えています。ほんのわずかなピッチの違いが「天使の歌声のよう」とも「お化けが登場するときの音」とも、大きな印象の違いを作ります。これほど身体性が高く、人間を感じるインターフェースはテルミンの他にありません。何をもって”ジャストピッチ”とするかは、人によってかなり幅があります。審美に関わる重要問題ですが、こういう部分にも演奏者は関われるのです。ピアノで問題となるのはミスタッチで、ピッチそのものをつくるのは調律師に任されています。名人が制御しても制御しきれないわずかな揺れやその揺れ方のパターンに音色の妙が隠されている。テルミンは電子楽器でありながらとてもヒューマンなインターフェースだと思います。

 テルミンは1920年に発明されましたが、演奏法をはじめ演奏教授法や、よい楽器をつくることなど、我々がやるべきことがたくさん残されています。ピアノやギターのように”作る人”、”弾く人”、”教える人”と分業化されておらず、全部自分たちでやらなければならず大変ですが、醍醐味があります。洗練から遠く、黎明の中にテルミンはあって、それはまるで荒れ地を開拓し、一軒の家を村にし、街に育てていくようです。私もそうですがミッションのように捉えている人は少なくないのではと思います。21世紀に生きる我々にとって、自分の役割、ミッションと呼べるようなものを必要とする人は多いのかもしれません。

 

 

ME:何故日本がテルミン大国になったと思いますか?

竹内:テルミンを面白いと思う人が増えればよいといつも思っていますが、それはあくまでも取り組みの結果であり、目的ではありません。

 手先が器用だったり、凝り性でどこまでも洗練させないと気が済まない性分など、テルミンのインターフェース性が日本人の気質に合っているところはあると思います。先述したように、テルミンは状況的にやらなければならないことが山のようあって、それに取り組む個々人が己のミッションのように捉えているからかもしれません。裏を返せば、現代日本に生きる人に必要なものはまさにそれであるとも言えるでしょう。

 テルミンは音律や音階に縛られない自由なインターフェースですが、我々はこの自由なテルミンを、自らを律し、いわば型にはめ、不自由の中で弾いています。かつて精神分析医の先生と対談した際のテーマが「自由な不自由、不自由な自由」でした。自由を手にした我々ですが、自由の中で自由はその存在が見えなくなる。白を際立たせるのが黒であるように、自由を実感するために不可欠なのが不自由だというとイカレていると思われるでしょうか。テルミンの自由さを実感するにはどこかに不自由さが要る。私達がテルミンでフリーミュージックをやらない理由はまさにここにあります。この問題は極めて今日的であり、だとするならば1920年に発明されたテルミンが今必要とされる理由も、わかる気がします。

 私は常々、何かがポピュラーな存在になるためには、特殊でないことが条件と考えています。しかしこんにち世界中でテルミンをやっている人を見渡してみると、私達とピョートル・テルミンさん(テルミン博士のひ孫でテルミン奏者)の周辺以外は、皆テルミンで特殊なことを求めています(蓋を開けてみれば皆似たようなことをしているのに、皆自分がオンリーワンだと思って似たような特殊をやっている状況は、別の意味で興味深い)。音楽全体の中でクラシック音楽が占める人気の割合は一割程度と聞いたことがあります。それが現代音楽やノイズ音楽になれば統計学的にはほとんど誤差ほどの分量です。分母が小さくマイノリティであるが故風変わりでいられるのですが、それをやっていたのでは人気が出るはずもないのは、子供が考えてもわかることでしょう。私が求めるのはテルミンやマトリョミンこそ用いますが、あくまでも普遍性のある音楽です。先述しましたが人気はあくまでも結果で、追い求めるものではありませんが、ポピュラーであることに背を向けた、小さな蛸壺がフィットするような音楽は個性的というよりも独りよがりで、個人的にはまったく魅力を感じません。

 道具を進化させ過ぎないのも、それにより作りだされる結果を豊かにするための条件と考えています。例えば筆ですが、道具として進化させ、誰にでも簡単に書けるようになったとしましょう。技術の進化が人間に励むことをやめさせてしまった時、人間の内的な進化と深化(器用さや知恵)は止まると考えています。そうなれば書道のイデーやフィロソフィーは失われ、ただ単に文字を書くだけのツールになってしまう。私は脳卒中を患い右半身が麻痺していますが、食事を摂るための道具としてお箸はナイフ・フォークに比べ扱いが難しい。お箸での食事は難儀ですが裏返せばトレーニングになる。感性や能力を育むため、道具は進化させすぎてはならないと考えていますが、テルミンやマトリョミンにおいても同じ考えです。

 

 

ME:これまでにご自身の演奏も含め、印象に残っている演奏はありますか?

竹内:2013年にマトリョミン合奏で世界記録を樹立しました(272名で世界初)。

 たった一人で始めたテルミンがこんなにも多くの人に弾かれているところを見るのは、感慨深いものがありました。楽器(マトリョミン)は私が創りましたが、よい弾き手があってこそ豊かな音楽を奏で得る楽器になれるのです。世界記録の演奏者の中に私は含まれておらず、マトリョミン(テルミン)は大きく成長して一人歩きを始め、今や私抜きでもこんな音楽を奏でられているのを見聞きするのは、本当に歓びでした。マトリョミンを世に放って10年、私がロシアに渡ってから20年目の達成でした。

 

 

ME:2016年のクリスマスコンサートで倒れられた際のことをお聞かせください。

竹内:コンサートの幕が開き、まさに弾き始めたそのときに私の脳は出血を始めました。

右手が痺れだし、誰かに羽交い締めにされるように、動く範囲がどんどん狭くなっていくのがわかりました。言葉が出てこなくなり、脳卒中だと確信しました。私は音楽家であり、演奏中に、それもお客様に聞いてもらっているコンサートが死に場所だなんて、音楽家冥利に尽きると思いました。しかしクリスマスの日にコンサートを、テルミンの演奏を楽しんでくれているお客様を受難に付き合わせたくないと存じ、なんとか気づかれずにコンサートを終えたいとだけ考えていました。幸い最後まで意識は続き、コンサートをやりおおせられました。

 

ME:脳出血での入院、リハビリを通じ気づいたことはあります?

竹内:私は現実主義者ですが、目が覚めたらすべて嘘だったかのように何の問題もなく動き、麻痺もなくなっている奇跡を夢見たことも一度や二度ではありません。入院当時は車いすなしでは移動もできず、ろれつ障害のほか認知機能もかなり低下していました。パソコンやスマホで文字を入力する際「きゃ」「りゃ」は”kya”, “rya”とキーを打たなければならないことがどうにも思いつかなかったのです。映画『潜水服は蝶の夢を見る』のような絶望的ケースからすれば私の障害は軽いといえますが、自力で歩けず、「ジャイアンツ」と言わねばならないのに「ドラゴンズ」としか言葉が出てこなかった頃を思えば(ドラゴンズファンではありませんが)、人間の回復力は未知数だと思いました。 

 

ME:竹内さんと同じように患い、リハビリに取り組む方にメッセージはありますか?

竹内:脳卒中後遺症はよい薬や医師がいるだけでは治りません。本人がどれほど回復を欲していて、ほかの誰よりも強く信じているかにかかっていると考えています。いのちをとりとめたならば、ほんの僅かでもいいので回復を目指してほしいと思います。アンドリュー・ワイエスの画「クリスティーナの世界」で描かれているクリスティーナ・オルソンのように、病に負けず、私も力強く生きていきたいと 考えています。 

 

 

ME:「復活の日」コンサートに対する意気込みなどあればお聞かせください。

竹内:テルミン演奏に取り組み始めた頃は、羅針盤も海図もない航海のようでした。ただひたすら直感だけを頼りに必死で漕いでいましたが、この方向で間違っていないか、果たしてたどりつけるのか、まるで確信が持てませんでした。 微細な動作、繊細な制御を求められるテルミン奏者にとって、利き手が麻痺しているのは致命的でもありますが、やってきたところに戻ればよいだけで、これまでのような迷いや不安はありません。それに 25年前はたった一人の船出でしたが、いまやこんな にもたくさんの友や、支援してくれる人がいます。「復活の日」コンサートでは支援してくれる方々のご厚情に報いたいです。ゴールは遙か遠いですが1cmでも近づけるよう、できる限りの演奏をします。 

 

ME:今後の目標、課題などありますか?

竹内:たとえば脳卒中を患い右手が麻痺したピアニストであれば“左手のピアニスト”といった演奏スタイル用意されています。テルミンは電子楽器なのですからテクノロジーの力を借りて、もっと楽に演奏できる方法もあるかもしれません。私は人生に“挑戦”がないと生きていけないたちですが、そういう私にとって、脳卒中による麻痺の克服は“挑戦”に値するのだと思います。「テルミンなんて楽器未満で、音楽なんかできない」「マトリョミンなど作っても誰も欲しがらない」と言われてきたことを覆すのが、自分の生きるエンジンになってきたのだと思います。「脳卒中の腕でテルミンなど弾けるはずがない」とささやく声も聞こえてきますが、それを覆すべく、努めてまいります。 

椅子に腰掛け、中腰のような姿勢でテルミンを弾くのを、海外の演奏家によくみかけます。身体の揺れがピッチに影響を及ぼすのを嫌ってのことでしょうが、私はあのアプローチに否定的です。私のように半身麻痺をしている者にとって、椅子に座ったなら下半身の麻痺は影響がほとんど表れません。腕だけでない脚の麻痺による音の揺れに苦しまなくても済みます。ただ、身体の揺れパターンもその人の演奏情報であり、それを無かったことにしてしまおうという考え方に共感できないのです。こんな言い方をしては失礼かもしれませんが、凡人の考えつきそうなことです。佇まいが美しくない。テルミン博士は90歳を越えても二本の脚で立って演奏していました。博士への敬愛は言うまでもないですが、博士の天才にほんの少しでもいいので近づき理解したい、そんな想いもあって、椅子や身体の支えなど使いたくないのです。
Thereminiのような、定められた律や階の上での演奏など、奏者それぞれのピッチ感が音にまったく表れず、テルミンでやる意味がない。受容する人間は音の高さの感覚が極めて鋭敏で、色合いのようなニュアンスを音色に感じ取っています。テルミン演奏に取り組む人にこの奇跡のようなインターフェース性の本質、その魅力に気がついていない人が多いのは不思議です。

 

ME:ありがとうございました。竹内正実さんの「復活の日」コンサートは1/21(日)早稲田スコットホールにて開催されます。前半のテルミンの部はほとんどが新曲とのこと。竹内さんのコンサートにかける意気込みが感じられます。